水石とは、ただお気に入りの石をそのまま飾って楽しむものではありません。それだけでは、芸術性はでてきませんし、ただの石愛玩趣味というものになってしまいます。では、なぜ芸術性がでてくるのかということになるのですが、基本的な考えとしては、必要な道具を用いて飾り付けをし、石のみならず、すべてのもに格調付けをすることにより、初めて芸術性が生まれ、水石美や芸術性が見出されるものであると考えています
 つまり、いくら素晴らしい水石であろうと、そのままの状態であれば、ただの石ころだけであり、石だけでは、美というものは感じられても、芸術性など生まれてこないのではと考えているのです。良い水石を、その石の姿形や季節に合った水盤(銅盤等)に据え、石に見合った卓に乗せ、軸や添配(あるいは添え草)などを配することにより、水石の持つ美というものを、よりいっそう引き立たせることにより、初めて芸術に昇華するものではないかと考えているのです
 そのためには、水石の良し悪しだけではなく、使用する諸道具の良し悪しまでをも知る必要があり、なによりも、それらを取り合わせて、 「どのようなことを表現するのか?」 というセンスが問われるものであろうと考えています
 当然のことですが、このことは飾り付けをする人の意思・考え・表現能力・センスだけが、問われるのみではなく、鑑賞する側にも、それらの審美眼が求められるものとなっているのは言うまでもありません
 このことが 『水石は、総合芸術である』 と言われている所以(ゆえん)でもあると考えています

 いくら素晴らしい水石を持っていても、その水石を引き立たせる飾りをすることができなければ、何にもなりません。また、それとは逆に、素晴らしい水石・水盤・卓を持っていても、水石との取り合わせが陳腐なものであれば、水石を殺してしまうだけで、芸術まで昇華しているとは、とうてい言えませんので、感覚のみならず理論的にも裏打ちされたものが必要になってくると考えています

 真の水石道とは、水石と関係する諸道具を適切に取り合わせて、鑑賞者に 「一服の清涼感を与える」 ことや 「心安らかにさせたり」 、 「見えぬ山野の風景を連想させる」 ものであり、それには、最低限の必要な知識と、それらを表現をするセンスが求められるものと確信しています
 現在の水石界を見てみますと、全国には300あまりの水石会があり、それぞれ独自な活動をしています。その活動内容にしても、探石・展示会・研修・交換会などさまざまな活動が行われており、探石中心の会があったり、研修や展示会に重きを置いている会などもあります
 『水石は総合芸術』 であると、昔から標榜されているのですが、残念ながら僕の知る限りで、その域にまで達している会は非常に少なく、このままでは、「水石の素晴らしさ」などを、とうてい後世に引き継ぐことはできません

 まだまだ未熟ではありますが、水石の芸術性を少しでも多くの人に知ってもらいたく、この項を開設するに至りました





 「水石が芸術性を持つ」ということについて語るのには、水石の美について触れなければなりません
 「美」と一概にいっても、多種多様な美が存在することはご承知のとおりですが、水石の美の本質は、 「侘び」 ・ 「寂び」 の2つの美が中心となるとともに、最終的に行き着くところは 「瀟洒」 ・ 「枯淡」 ではないかと考えています。もちろん、他の美を頭に浮かべながら水石を楽しんでいる人もいるとは思いますが、それはそれで、行く道が少し違うだけなのでしょう

 現在は、それほどではありませんが、日本人の感じる美と欧米人の感じる美には大きな差があり、これは、生まれ育った環境(自然・地形・気象等)の違いによるもので、その基本にあるものは、欧米人は整然とした人工的なものに美を感じているように思え、反面、日本人は昔から省略された自然のものに美を感じているように思えます
 いずれにせよ、『美』というものは、さまざまな形で存在しますが、ここでは、水石を通して感じることのできる美について、少しでも掘り下げて考えていきたいと思います


 まずは、 「侘び」 の美について考えてみます。誰でも聞いたことがあると言葉だとは思いますが、侘びという概念がいかなる様を現した言葉(美)であるのかということになると、意外と知られていません。恐らく侘びとは、日本人のオリジナルな美意識ではないのかと思っています

 では、侘びとはどのような美なのでしょうか? 

 侘びを語るのには千利休に関する有名な話があります。当時、利休が素晴らしい朝顔の花を家で作っていたのを聞いた秀吉が、利休の家に朝顔を見に行かせてくれと頼みました。それを承知した利休は、秀吉が来る日の朝に、庭の朝顔をすべて切り取ってしまい、一番良い一輪のみを茶室に飾り、秀吉に見せたという逸話です
 普通であれば、そのまま庭を案内すれば良いのでしょうが、あえて、一番美しいと思われる一輪のみを、最高の状態(状況)で、鑑賞してもらうという粋なはからいをしました。恐らく、朝顔に一番似合う器にいけたことでしょうし、他の演出も隙などなかったのに違いありません。このように演出がプラスされることにより、たった一輪の朝顔も芸術に昇華できたのではないかと考えています

 つまり、侘びとは 『省略された美』 ということであると考えています。その対極には、西洋の集合美があります。バラや他の花で花壇や生け垣などを作り、「豪華」な花が「たくさん集まった」美を作り出しています
 かたや、侘びの本質である『省略された美』というのは、花を例にとると、たくさん集合している状態の美ではなく、できるだけ数を少なく、最低限の花数で、その花の持つ本質的な美を表現しようという考えで、洗練された審美眼が求められることは言うまでもありません。ですから、花における好みといいますか、「侘び」ている風情に合う・合わない、などということがでてくる場合も考えられます。花弁が幾重にも重なるバラよりも、花弁が1枚で単調な朝顔の方が省略された美を感じる要素はあるように思われます
 いずれにせよ、「集合よりも単体」、「複雑よりも単調(単調度合いにもよりますが)」の両者を満たしていながらも「本質的な美」を現したり、感じたりすることが 『侘び』の本質 ではないかと考えています




 景色を現わしている水石というのは、その存在自体が、実景そのものを現わしているのではなく、自然の中のさまざまなもの(樹木・草本・川・谷・湖・海・田畑等)が省略化された形で、遠山形・島形・溜まりなどという形で、表現されているのが普通です。ですから、存在そのものが「侘び」ではないかと考えています
 また、「侘び」と「具象」とは、紙一重のものかもしれません。この写真の石は、遠山抱湖の景色を具象化(半抽象化した)石です。これをもって侘びと捉えることができるかどうか難しいところですが、実景を省略化・簡略化(具象化とは微妙に違う)されたものが、侘びの本質です



 「寂び」 についても、その言葉は良く知られていますが、この言葉についても、その本質を理解している人は少ないように見受けられます。では、寂びの本質とはいったい何なのか?

 寂びとは、一言で言うと、古田織部言うところの 『綺麗寂び』 という言葉に集約されるのではないかと思います。つまり、 「歳月を経過した美」 といいますか、ある物が時代が経過することにより、自然と古びて見えるようになり、新品であった物も、年月の経過や使用により落ち着いて見えてくる様ではないかということです

 例えば、家にしてもそうなのですが、建てた当時、白木の柱や竹の部材などは、歳月の経過や使用により白木の部材は、少しずつ黄ばんできたり、竹の部材は飴色に変色してきます。このことは、有機質の物だけではなく無機質なものでもまったく同じであります。テカテカに光っていた金属製の物や、陶磁器などは、テカテカ感が少しずつ失せていき、しっとりと落ち着いた様になってきます。このように、 『時代が経過して、しっとりと落ち着いた様』 が、寂びの美の本質ということにつきます

 気をつけなければいけないことは、この時代が経過して古びた様というのは、けっして「汚れ」とは同質のものではありません。汚れは汚れであり、しっとりと落ち着いた様ではありません。また、古ければ何でも良いということではなく、あくまでも、時代が経過することによってのしっとりと落ち着いた様がなければ、美とはなりえないのです。ですから織部もわざわざ『「綺麗」寂び』などと言って、綺麗という修飾語を用いているのです




 「寂び」というのを、石の写真で表現することも、なかなか難しいものがあります。この石は、採石してきた時には、紫黒色をしていたのですが、時代がのり(風化:紫外線の影響か)黒色に近い色に変色してきて、場所によっては石の中に染みこんでいる鉄分が、鉄錆として石肌に染み出してきました。拾ってきたばかりの同じ石があれば、わかりやすいと思うのですが、なんとなくわかるでしょうか



 侘び寂びと比べ、言葉で言い表すのが難しい美の概念です

 「伊達」・「お洒落」・「粋」などが近いのかもしれませんが、それらの概念ともやはり微妙に違うものです。強いて表現すると 『軽やか&まろやか&上品』 という感じになるのでしょうか

 線が細く上品であることが、最低限の条件であると考えられます。しかし、それだけでは足りないものがあり、全体からまろやかさを感じ取れるものも必要です。そこまで兼ね備えられて、初めて瀟洒という美が生まれてくると考えています。簡単に言うと、いわゆる「垢抜けている」ということにも通じることとは思いますが、ただ垢抜けているということだけで、瀟洒と表現するのには、少しおこがましいような気がします。やはり、上品さはプラスしたい要素だと考えています。そのように考えると 『軽やか&まろやか&上品』 という感じになるのでしょうか・・・・・

 いずれにせよ、瀟洒という美は、センスの高い美的感覚や審美眼が要求されるものであると思われます



 
 「瀟洒」とは、なんと難しい表現でしょうか? 実物の石は、瀟洒でまあまあの石なのですが、写真で撮影してみると、やはり、ちょっと厚ぼったい感じを受けてしまいます。いずれにせよ、『軽やか&まろやか&上品』とは、このような感じの石です



 枯淡という概念は、美を象徴する世界共通の概念とは少し違い、恐らく、日本人独特の感覚ではないでしょうか?

 寂びという感覚に、さらに枯れた味わいをプラスしたものという感じでしょうか。 寂びている中にも、深く枯れた味わいを感じさせる という感じでしょうか。いずれにせよ、ただ時代を感じさせるだけではなく、そこに枯れた味のあるものという感じになり、これは飾りで表現するものではなく、水石や諸道具が自ずから持っている美の味わいになり、枯淡の趣を持つ水石を飾る時には、この趣を壊さないように表現していくことが大切になると考えています

 いずれにせよ、かなり高度な美意識を持たないことには、正確に理解できるものではないと思われます




 「枯淡」という枯れた味わいというのも、なかなか難しいものです。あまりに時間が経過すると、石の皮目は真っ黒に変色したり、肌目の部分は粉が吹いたようになってしまいます。このような様子が枯淡という感じでしょうか



 「痩せが効いている」 などという言葉があります。本来であれば、太かったり・厚かったりしても問題のないもの、細かったり・薄かったりすることにより、それが欠点ではなく、逆に調和をして、そこに美を感じるという感覚なのですが、これも、どちらかというと水石や諸道具自体が持つ味わいの一つです

 実際のところ、水石美はこれらのことだけではなく、他の美についても、もちろんあることと思っているのですが、基本的には 華美といわれるものとは対極の美 であるということが言えるのではないかと思います。虚飾を捨て去り、最低限のものを取り合わせることにより、ある種の美を表現し、その飾られた席を通じて、ある種の景色をも彷彿とさせ、侘びや寂びなどともに、鑑賞者を懐かしい空想の世界にいざなうのが、水石の本道であり、そのためには、さまざまな美の要素を適切に把握しておき、表現していくことが、水石の面白さであり、奥深さではないのかと考えています




 「痩せ」を石で表現するとすると、このような石でしょうか。薄かったり・細かったりすれば何でも良いということではなく、やはり全体のバランスで判断すべきものでしょう。この石も写真ではわかりにくいのですが、薄く・か細い感じがするのですが、そのことがマイナス要因にならずに、プラスの作用を働かせながら調和をしています。このような様子が「痩せ」です




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